祝福二世ねこのブログ

私なりに見える統一教会について、記したいと思います。誰かの一助になれば。

【第12回】相対者との交流期間【祝福式を受けるまで】

久しぶりの投稿となります。これからは毎週土曜日夜七時の投稿をしていきたいと思います。

この記事を書いている間、我が子はミルクも終わり、クーイングをしながらご機嫌で過ごしてくれています。


さて、再開してから一回目の投稿ですが、今回は会員が読めば度肝を抜かれる内容となります。会員でなくても、ある程度統一教会の教義を知っている方でも「えっ?」となるかもしれません。

今までの投稿で身バレ防止のためフェイクも入れていますが、万が一「あれ…この人…??」となっても黙っておいてください。


約婚式も無事に終わると、私の気持ちはセーブするのが難しくなりました。というよりも、セーブする必要がなくなったと感じたのかもしれません。

遠距離ではありましたが、毎週のようにデートを繰り返しましたし、手を繋ぐことから始まり、相手に「触れたい」気持ちは募りに募り。最終的には、キスから始まり一緒にお風呂に入るようになっていました。ただ、本番行為はありませんでした。それは互いにとって、最後の一線でもあったからだと思います。


私にとっては、相手に対して絶対的に責任を持つ行為であり、そこまでいけば、私の心もまた誰にも顔向けできなくなると感じていたからです。


いやいや、教会的にはアウトじゃね?

って話ですよね。

はい、アウトだと思います。


ただ、私の良心がそこに問題性を感じなかったのです。神であろうがサタンだろうが、それらの前に連れ出され問いただされたとしても、私自身は恥じることなくその事実を認めることができたのです。もちろん、自分達の両親に対しても同じです。


さらに言えば、私にとって性行為は「生殖行為」とも直結していました。もし我が子を授かったとしても、恥じることなく我が子に伝えられることは私にとって重要でもありました。


私がその時に相対者に感じていた感情は「愛したい」という思いであり、その上で、神に祈りながら結論を下したモノです。


ただ、これを読んだ2世に不幸が起こってはいけないので言及しておきます。

私は私が正しいと思っていません。ただ、「私にとって」、それらは正しいモノだったと思っています。

もし協会員の後輩達に同じような相談をされたら、私と同じようにすることを、私はおすすめしません。

私は「何が何でも一緒になる」こと、「何があってもかわらない」ことを、既に決意してました。もちろんそうは言っても、思いは変化することもあるかもしれません。もちろん変化しない努力は必要ですが、たとえ変化しても、パートナーを大嫌いになったとしても、憎んだとしても、一緒に居続ける努力を決意しました。

私は私がそれをできると信じているので、祝福を受ける前にそこまで踏み切りました。

ただ、それを他の人が同じ気持ちで、同じようにできるとは信じていません。

それに教会的にはアウトでもあります。


繰り返しではありますが、私は私自身が考え、行動し、その行動により起こりうるトラブルも覚悟をした上でのことでした。

安易に「行為をしても良い」と言いたいわけではないことをご理解いただけると嬉しいです。

ただ、そんなカップルもいるのか、ぐらいに思っていただけると幸いです。


さて、次回はついに「祝福式」についてお話ししたいと思います。