【第2回】祝福について思うこと
*このブログは私の偏見と主観で書いています*
しばらくは入院生活なので、毎日更新できるよう少し頑張ってみたいと思います。
今回は、祝福について。
現在の祝福は随分と変わったんだろうなという印象を受けています。
まず、文鮮明氏のマッチングではなくなりました。いきなり出会って「あなたたち、結婚しなさい」と言われることは無くなったわけです。
ではどんな形になったかというと、「父母マッチング」という形です。
両親が我が子のために祈り、時間を割き、さまざまな会場へ足を伸ばし、相対者(パートナー)候補を探します。
そして、この人良いかも!と思えば、子供へ「こんな人がいたんだけど、どう?」なんて話がいきます。
現在はネットも活用されて、本人(子供)は見れませんが、父母が見れるマッチングサイトなるものもあります。そこに自己紹介や信仰について、パートナーに求めたいもの、自分がしたいと思うことなどが記されており、父母はそれらを見て、候補に良いのではと思えば、子供にも見せることもあります。
そして、互いの子供の了承を得て始めて「お見合い」という形になります。
そして、お互いが親睦を深め祝福を受けると決めれば、約婚、つまり、婚約をします。
そして、祝福式へ向けて準備をしていくことになります。
昔のマッチングもそうだったそうですが、嫌であれば断ることもできます。もちろん、お見合いをしてから「違うな」と思えば断れます。約婚をしてから、やっぱり無理、と断られるケースもあるようです。
あくまでも、本人たちの意思が尊重されます。
また、これに関して親はとやかく言うと思いますが、教会のスタンスとしては「本人の意思を優先する」ことのようです。私が両親と共に面談した時に言われたことは、「あくまでも本人の意思で決めて進まなければならない。親の願いだけでは幸せになれない。2世は親想いの子が多く、親の『祝福を受けてほしい』という願いだけで受けてしまうことがあるけれど、大抵うまくいかない」と言われました。
それが、今の「祝福」の全容です。
私は幼稚園の頃から、「お父様が決めるの?その日初めて会った人と結婚するの?いや!」と言っていたのを覚えています。幼心にも、好きだと感じられない人と結婚するのは嫌だと思っていました。
ですが、私としては現在の形は、自分自身の思いもきちんと育んだ上で祝福を受けられるので、あまり抵抗はありませんでした。
むしろ、「この人と愛し合っていきたい」と思える人と普通の結婚式を挙げる感覚で、式に臨んだのを覚えています。もちろん合同結婚式なので見た目は普通ではありませんが、神様が私たちのところに来て、「これから頑張るんだよ〜」と言ってくれてるようで、私にはかけがえのない式でした。
ただ、祝福を受けることよりも「結婚」という重さから、お見合いするまで少し嫌がっていましたが…。
これはまた、私の体験をお話しする時にでも書けたらと思います。
次回は、少し話は変わって、『絶対性や、異性交遊について』のお話ができたらと思います。
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