祝福二世ねこのブログ

私なりに見える統一教会について、記したいと思います。誰かの一助になれば。

【第6回】原理講論について

先日、夫の誕生日でした。

が、私はもちろんまだまだ入院暮らし。退院のめどもついておりません。

一緒にお祝いすることもプレゼントも今はできないので、手紙を書いて渡したのですが、夜電話をして、「手紙読んだ?」と聞いたら、「あー…車に置いてきてるわ」との返答。


こいつ!!私が!!会いたくて!!でも面会完全禁止で!!寂しくて!!誕生日を一緒にお祝いしたいのにできなくて!!泣きながら書いた手紙を!!こいつ!!!


……なんて腹も立ちましたが、夫の性格を思えばそれも予想できたことでして。

まぁ、私が少しでも愛情を伝えたくてしたことですから、そこまで怒ることもないか……なんて、自分を落ち着けていました。

プレゼントチケットを手紙と一緒に入れておいたので、それがなかったらプレゼントはなしということにしたいと思います。(やっぱり腹は立つので)


さて、今日は少しばかり、原理講論のお話。


統一教会といえば原理講論!なんて世代の方もいらっしゃるんじゃないかと思います。そもそも日本で統一教会の伝道が始まった時、この原理講論からだったという話も聞きます。


統一教会の経典とも言えるこの原理講論。

もちろん、今でも2世教育の一つとして、取り組まれています。


文鮮明氏が聖書を解き明かしたものをまとめた内容となっています。


私はあまりこの原理講論には、正直詳しくありません。もちろん本も読みましたし、講義も受けましたが、後半に行けば行くほど私にとってはどうでも良いと感じるものも多かったのか、あまり記憶に残っていません。


また、この原理講論が正しいのか正しくないのかでいえば、私にとっては大きな問題でもないと思っています。


この原理講論に感銘を受けた方、もしくはより疑いを持った方、さまざまだとは思うのですが、私にとってはあまり意味のないものでした。


そもそも経典になるものに正しさが必要か?とすら思っています。

キリスト教の経典は聖書になると思うのですが、あれも実際読んでみると、イヴとアダムの堕落するシーンは有名なこともあり比較的理解しやすいのですが、その後に続くものは家系図であったりとある家庭が突然取り上げられたり、その中のエピソードも理解しにくいものも多くあります。少なくとも、私は小学生〜高校生ぐらいの間に何度か挑戦しましたが、理解し難いものが多かったです。

あれって、正しいんでしょうか?


もちろん、検証してみるのはいいと思います。言葉をこねくり回して、言葉遊びをしてみても面白いかもしれません。


ですが、問題はもっと本質にあるのだと思っている私にとって、経典は何の意味もなさないものでした。


もし興味のある方は、YouTubeにも講義が上がっているようなので、見ていただいてもいいかもしれません。

あまりお勧めではありませんが。(眠れない時に見てみたら、よく眠れるかもしれません)