【第7回】私が祝福を受けようと思った理由
予約投稿機能があることをつい数日前に知りました。
これからは、夜の19:30に投稿できるよう、頑張ってみようと思います。
今回は、私が祝福を受けようと思った理由を書いてみたいと思います。
今までの記事を読んでいただいた方は察していると思いますが、私は熱心な信徒ではありません。
教会に献金を迫られても自分の生活が逼迫していれば自分の生活を優先しますし、伝道だ活動だと言われても「そうですか〜頑張ってください」と他人事。日々の祈りや訓読(文鮮明氏のみ言葉集や経典等を声に出して読むこと)などの信仰生活にも消極的。
ではそんな私がなぜ祝福を受けようと思ったのか。
それには、もちろんきっかけがありました。
なんの修練回に参加してだったのかは忘れてしまったのですが(祝福に関する修練会だったような気がします)、母に半ば無理矢理参加させられた時のことでした。
原理講論や文鮮明氏のみ旨路程(文鮮明氏の今までの歴史といえばわかりやすいでしょうか)などの講義を受ける中で、毎日のようにお祈りをしていたのですが(そのような時間が設けられています)、その中での自分自身との対話もあり、至った結論でした。
「100年、200年、300年、どれだけ未来になるかはわからないが、その未来では今よりもずっと幸福で、幸せで、笑顔で、満ち足りた世界になっていてほしい」
幸福という言葉も、幸せという言葉も、解釈が難しい言葉です。なぜならそれは、人によって感じ方、基準が違うからです。
ですから、私の「幸福な未来」はとても漠然としているものだったのですが、その時はただただ、そう思いました。
そして、少なくとも今の社会の考え方ではその実現は難しいこと、私が頼れるのは、私が今できることは、祝福を受け子を残すことではないかと、安直に考えた訳です。
少なくとも、子供に平和思想を伝えることも、武器やお金が大きな意味を成さないことも伝えていけるのではないか。そう考えました。
もう一つは、「神様が望むなら、私はそうするんだろうな」ということでした。
こればかりは幼い頃から神という存在があまりにも近かった影響は拭えないと思うのですが、自然とそう思いました。成るように成るのだと。
今のご時世、結婚が幸せの全てではありません。不幸に成ることだってあるでしょう。
それに、相対者(パートナー)探しにも難航するであろうこと(祝福希望の男女比は女性の方が圧倒的に多いため)も含め、ダメであればその途中で私は投げ出すだろうし、良い人と出会えればそれもまた縁。
人生、成るようにしか成らない。それに、私が幸せである必要はない。私達の世代は、礎のようなもの。それでも、未来が少しでも明るくなるならば、それが全て。ならば身を任せてみよう。
そんな気持ちで、祝福を受けるための準備を始めることになりました。
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