祝福二世ねこのブログ

私なりに見える統一教会について、記したいと思います。誰かの一助になれば。

【第9回】相対者との交流期間【祝福を決めるまで】

昨日は更新できませんでした

その理由は、二週間以上の入院もあり、見事にやってまいりました。

そうです、 通 信 制 限 です。

もう退院まで一週間を切っているので、必要な分を最小限だけデータチャージしながら過ごしたいと思います。いや1GB千円って高過ぎません!?初めて通信制限になったので、凄くびっくりしました。


さて、今日は交流期間のお話をしたいと思います。


彼の実家は奈良だったのですが、その時は大阪でお仕事をされていて、住まいも大阪でした。

まぁお互い、祝福を受ける年齢としては少し上だったこと、距離が離れていたこともあり、両親たちからも自分達で食事に行ったり交流をするように伝えられていました。(本来であれば、まだ両親をそろえて家族交流としての期間を持つよう教会から指導されることもあるようです)

ですので、まず最初は二人で食事へ。


彼が夜勤の仕事であったこと、かなりのブラックな環境で働いていたことなどを加味して、私が大阪へ向かうことになりました。

この頃はまだ、彼も気を張ってくれていたのか一日に一回は最低でもLINEのやり取りをしていたこともあり、比較的スムーズにお店を決めることもできました。

私もその時はバリバリのオタク趣味だったのもあり、そんな話題をいきなり飛ばすのもと思い、話は自然と仕事のことばかりに。お互いに職場の愚痴も吐きつつ、お話をしました。


それからまたLINEで話をしたり、通話したり…。

カフェに行ったり、二人で滝を見にピクニックに行ったりと、交流を重ねました。


で、このピクニックに行った帰りに、自分で気付きました。


「あれ、私この人と一緒にいてもめちゃくちゃ楽しいお話ばっかりするわけじゃないけど、この人のこと好きだ」


その時感じた感情が、人として好きだったのか男性として好きだったのかは、正直わかりません。ただ、笑うときにクシャッと寄るシワや、色素の薄い瞳に光が反射してキラキラするところなど、「あっ好きだ」と思っている自分に気付きました。


その辺りから、わりと私からのアプローチの方が多くなったと思います。最初は義務感もあって、会う日を決める連絡や体調を気遣うメッセージを入れていたのですが、いつしかそれが楽しくて、一日に一回返ってくる返事では物足りなくなり、会わない時は電話しようと誘いまくってました。

LINEのスタンプも、彼に送りたいがためにこのときめちゃくちゃ増えました。


そして、2人で夜の映画を見に行ったときに、2人で祝福を受けていくことを決めました。

それも、さら〜っとしたものでした。

「祝福どうしましょう?」

「あなたが嫌じゃなければ」

「私もあなたが嫌じゃなければ」

「じゃあ、受けましょう」

そんな、サラッとしたものでした。

それも、大阪のどこかの映画館のエスカレーターの上での話。一般の社会で言えばプロポーズにあたるモノだと思うのですが、ロマンチックのかけらもありませんでした。

でも、その言葉がなんだか彼らしくて、私らしくて、あぁこれでいいんだなと、妙に納得したのを覚えています。


そして、二人で約婚を迎えるための準備を始めました。

【第8回】私の相対者探し

妊娠34週を越え、ひとまず体は現状維持ということで退院の目処がつきました。

逆子が治らず帝王切開は変わらずで、本格的に手術内容や日程を決める中で恐怖を感じつつ、長かったように感じた妊娠期間に終わりが見え、ついに我が子と会えるのかという喜びも感じています。


さて、今日は私の相対者探しについて。


まず親に、希望を聞かれました。「どんな人がいい?」と。

私の答えは、「真面目に仕事してくれる人。家庭のことを一緒に話し合える人」でした。

容姿は?身長は?仕事は?年収は?と、わりとしつこく聞かれましたが「ハゲでもデブでもチビでも何でもいい(口悪い)」と答えていました。

「容姿は慣れる。でも、家庭を続けていくならお金が必要だし、話し合いが必要だから」と伝えることで、両親も納得して探し始めてくれました。

まぁそもそも、私も小中高とブスだブスだと言われてきたのもありますし、自分自身が姿形で美を捉えるタイプの人間でもなかったので、あまり興味がなかったともいえますが。


そして、両親が見つけてきたのが現在の夫にあたる方でした。


母曰く、決め手はご両親の人柄の良さだったそうです。この二人の息子なら!という思いもあり、私に話がやってきました。


ウェブ上で公開されてる情報を見せてもらいながら、「どうする?会ってみる?」と言われ、二つ返事で会うことを了承しました。

会ってみないことには何もわからない、という思いもあったからこその判断でした。

ちなみにその時の彼の写真の印象は、「足短い人だなぁ〜」でした。


私自身はとくに神様に祈ることもなく、勝手に「導かれるだろう」と傲慢にも思いながら、彼と会いました。

その日は少しのセミナーのあと、両家と教会スタッフの方々と奈良公園のレストランで一緒にランチをいただきました。普段食べない食材が地味に嬉しかったのを覚えています。

特にその時は相対者と話すこともなく、彼のご両親やスタッフ、自分の両親と話をしました。どうも、あまりお喋りは得意な方ではない様でしたので、ならば私を知ってもらう機会になれば良いのかなと思い、普段通りの、むしろ普段よりちょっと悪いぐらいの態度や口調で過ごしました。

それでお相手が無理だと判断されれば、それもまたご縁かなと思っていました。


その後、奈良公園を二人で散歩。十メートルほど後ろには、二人の両親がお喋りをしながら着いてきている状態の中、仕事の話や趣味の話をしたり、鹿せんべいをあげてみたり…と過ごしました。

そして思っていた通り、お喋りは得意ではなく、話のふりは全て私から。慣れてきたら彼から話すこともあるのだろうかと思いながら、その日を過ごしました。


別れ際、連絡先を交換するときに「連絡するのはマメな方ではなくて…」という彼に、「私もです。でも大事な連絡の時はちゃんと返事くださいね!」と笑いながら話してたのを覚えてます。

ちなみに、この連絡がマメでないこと、大事な連絡も怠る夫には、現在も私がよく怒ってます。私の想像以上に連絡をしない人でした。

ただこの日の解散後、彼から即「今日はありがとうございました。これからお願いします」的な連絡をいただいたので、気付かなかったのです。

そして後から知ることになったのですが、彼が実際出会った女性は私で三人目か四人目。その方達と交流が進まなかった理由の一つに、「連絡が返ってこないから無理」というものもあったそうで、母にも姉にも「連絡返せ!」と小突かれていたようです。(この話を聞いた私は、彼が筆まめでなくてよかった…!彼の魅力に他の女性が気付いてしまうところだった…!なんて、呑気に思ってました。)


そうして、そこから二人の交流期間が始まりました。

【第7回】私が祝福を受けようと思った理由

予約投稿機能があることをつい数日前に知りました。

これからは、夜の19:30に投稿できるよう、頑張ってみようと思います。


今回は、私が祝福を受けようと思った理由を書いてみたいと思います。


今までの記事を読んでいただいた方は察していると思いますが、私は熱心な信徒ではありません。

教会に献金を迫られても自分の生活が逼迫していれば自分の生活を優先しますし、伝道だ活動だと言われても「そうですか〜頑張ってください」と他人事。日々の祈りや訓読(文鮮明氏のみ言葉集や経典等を声に出して読むこと)などの信仰生活にも消極的。


ではそんな私がなぜ祝福を受けようと思ったのか。


それには、もちろんきっかけがありました。


なんの修練回に参加してだったのかは忘れてしまったのですが(祝福に関する修練会だったような気がします)、母に半ば無理矢理参加させられた時のことでした。

原理講論や文鮮明氏のみ旨路程(文鮮明氏の今までの歴史といえばわかりやすいでしょうか)などの講義を受ける中で、毎日のようにお祈りをしていたのですが(そのような時間が設けられています)、その中での自分自身との対話もあり、至った結論でした。


「100年、200年、300年、どれだけ未来になるかはわからないが、その未来では今よりもずっと幸福で、幸せで、笑顔で、満ち足りた世界になっていてほしい」


幸福という言葉も、幸せという言葉も、解釈が難しい言葉です。なぜならそれは、人によって感じ方、基準が違うからです。

ですから、私の「幸福な未来」はとても漠然としているものだったのですが、その時はただただ、そう思いました。

そして、少なくとも今の社会の考え方ではその実現は難しいこと、私が頼れるのは、私が今できることは、祝福を受け子を残すことではないかと、安直に考えた訳です。

少なくとも、子供に平和思想を伝えることも、武器やお金が大きな意味を成さないことも伝えていけるのではないか。そう考えました。


もう一つは、「神様が望むなら、私はそうするんだろうな」ということでした。

こればかりは幼い頃から神という存在があまりにも近かった影響は拭えないと思うのですが、自然とそう思いました。成るように成るのだと。


今のご時世、結婚が幸せの全てではありません。不幸に成ることだってあるでしょう。

それに、相対者(パートナー)探しにも難航するであろうこと(祝福希望の男女比は女性の方が圧倒的に多いため)も含め、ダメであればその途中で私は投げ出すだろうし、良い人と出会えればそれもまた縁。

人生、成るようにしか成らない。それに、私が幸せである必要はない。私達の世代は、礎のようなもの。それでも、未来が少しでも明るくなるならば、それが全て。ならば身を任せてみよう。


そんな気持ちで、祝福を受けるための準備を始めることになりました。