祝福二世ねこのブログ

私なりに見える統一教会について、記したいと思います。誰かの一助になれば。

【第3回】絶対性、異性交遊について思うこと

*このブログは私の偏見と主観で書かれています*


臨月がどんどん近づいてきて、妊娠のマイナートラブルもどんどん増える中で、お腹の中で元気に動き回る我が子。体調が良い時はその胎動も愛しく感じれますが、体調が悪くて気持ち悪くて「もう今日はダメです…」という時に感じる胎動には、「今はやめて…寝てて…おやすみ我が子…」なんて語りかけています。

妊娠して、あぁ無償の愛はある時突然生まれるわけではないんだなと、我が子にすらその愛を注ぐのは難しいものなんだなと感じています。



さて、今日は統一教会の目玉とも言える、『絶対性』『異性交遊禁止』について、お話ししたいと思います。


あまり社会では聞き馴染みのない「絶対性」という言葉。これが「異性交遊禁止」へと繋がる思想なのですが、簡単に言えば、「結婚しない異性とセックスだめ!結婚して一生を共にする相対者(パートナー)とだけセックスしなさい!」ということです。


これを嫌がる二世は、ネットなどで見る限り多いようですね。思春期になれば周りはそういう話になりますし、付き合ったとか別れたとか、セックスしたとかしてないだとか、そんな話題が盛り上がる時期がありますから、その会話に加われない、もしくは加わろうとしない存在は「少しおかしな人」と扱われがちです。

(成人以降でもそんな話題ばかりの人もいますが)

また、憧れもあるのかなぁと思います。私自身も、好きな人と触れ合うとか、キスするとか、セックスするとか、やはり憧れのようなものがありました。今思えば、「愛されたい」という思いから、無意識に憧れたのかもしれません。


そして、ちらほら見受けられるのが、「なぜダメなの?」という二世の疑問。当たり前の疑問ですよね。社会ではそれが当たり前で、一般的なのですから。

そのギャップに悩むのかなと思います。

統一教会はこれに対して、「初愛」、つまり初めてのセックスがいかに重要かを解きます。今後の夫婦関係のためにそれが大切なのだと、誰かを知った後では比べてしまうと、そう答える講師が非常に多いように感じています。


そして、ただ言えることは、この答えを「答え」として受け取っていない二世が多いのだということ。


私は、絶対性の有意義性も、異性交遊禁止も受け入れてきました。それはあくまで、母と何度も何度も会話をして、私自身性関係(フリーセックスや妊娠、性病関係)の本を読んだ中で、自分でそれを選びました。

協会から言われたからでもなく、母から言われたからでもなく、私自身が考え、学び、選んだのです。


私は祝福二世、というか、教会の人が好きではありません。理由は、「言われたままをこなすだけ。自分で考えることを停止している」と思うからです。

私の「なぜ?」という疑問に、納得のいく答えをくれる人はとても少なかったです。多くの人は、言われた言葉を繰り返すだけ。

勉強でも何でもそうですが、言われたことをするだけでは、自分の身にはつきませんよね。なぜそうなのか、そうすることで何が起こるのか、考えて考えて考えて、始めて自分のものになる。自分の「考え」になるのだと思います。

「そんなのおかしい」と反発しているだけでは、「お菓子を買って」と駄々をこねる子供と何が違うのでしょうか。


なんだか少し説教臭い内容になってしまいましたが、私は性関係を軽んじるべきではないと思っています。それは、その後に続く命があるから。

「皆がセックスしてるからセックスする」は、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と同義だと思っています。

なぜそう思うのか、次回は私にとっての「性の重要性」をお話ししたいと思います。

【第2回】祝福について思うこと

*このブログは私の偏見と主観で書いています*


しばらくは入院生活なので、毎日更新できるよう少し頑張ってみたいと思います。


今回は、祝福について。


現在の祝福は随分と変わったんだろうなという印象を受けています。

まず、文鮮明氏のマッチングではなくなりました。いきなり出会って「あなたたち、結婚しなさい」と言われることは無くなったわけです。

ではどんな形になったかというと、「父母マッチング」という形です。


両親が我が子のために祈り、時間を割き、さまざまな会場へ足を伸ばし、相対者(パートナー)候補を探します。

そして、この人良いかも!と思えば、子供へ「こんな人がいたんだけど、どう?」なんて話がいきます。

現在はネットも活用されて、本人(子供)は見れませんが、父母が見れるマッチングサイトなるものもあります。そこに自己紹介や信仰について、パートナーに求めたいもの、自分がしたいと思うことなどが記されており、父母はそれらを見て、候補に良いのではと思えば、子供にも見せることもあります。

そして、互いの子供の了承を得て始めて「お見合い」という形になります。


そして、お互いが親睦を深め祝福を受けると決めれば、約婚、つまり、婚約をします。


そして、祝福式へ向けて準備をしていくことになります。


昔のマッチングもそうだったそうですが、嫌であれば断ることもできます。もちろん、お見合いをしてから「違うな」と思えば断れます。約婚をしてから、やっぱり無理、と断られるケースもあるようです。

あくまでも、本人たちの意思が尊重されます。


また、これに関して親はとやかく言うと思いますが、教会のスタンスとしては「本人の意思を優先する」ことのようです。私が両親と共に面談した時に言われたことは、「あくまでも本人の意思で決めて進まなければならない。親の願いだけでは幸せになれない。2世は親想いの子が多く、親の『祝福を受けてほしい』という願いだけで受けてしまうことがあるけれど、大抵うまくいかない」と言われました。


それが、今の「祝福」の全容です。


私は幼稚園の頃から、「お父様が決めるの?その日初めて会った人と結婚するの?いや!」と言っていたのを覚えています。幼心にも、好きだと感じられない人と結婚するのは嫌だと思っていました。

ですが、私としては現在の形は、自分自身の思いもきちんと育んだ上で祝福を受けられるので、あまり抵抗はありませんでした。

むしろ、「この人と愛し合っていきたい」と思える人と普通の結婚式を挙げる感覚で、式に臨んだのを覚えています。もちろん合同結婚式なので見た目は普通ではありませんが、神様が私たちのところに来て、「これから頑張るんだよ〜」と言ってくれてるようで、私にはかけがえのない式でした。


ただ、祝福を受けることよりも「結婚」という重さから、お見合いするまで少し嫌がっていましたが…。

これはまた、私の体験をお話しする時にでも書けたらと思います。


次回は、少し話は変わって、『絶対性や、異性交遊について』のお話ができたらと思います。

【第1回】教会について思うこと

*このブログは私の偏見と主観に基づいて書いています。*




まずは、私の統一教会について思うことを書いてみたいと思います。

まず私が思うことは、「組織ってだけでうさんくせぇ」です。


週一回の礼拝も、何度も行われる様々な大会も、献金制度も、もう何もかもが胡散臭いなぁと思います。


お金の使い道もきちんと示されていないのが胡散臭いと感じる理由かもしれません。なんだかんだと理由をつけて献金を求められて、じゃあそのお金は世界平和のためにどんなふうに使われてるの?って、思いますよね。無駄に豪華で大きな市役所を建て替えなんてされたら「税金の無駄遣い」って思いますし。


じゃあ、なんでそんな胡散臭いと感じる組織に身を置いているのか。


文鮮明氏の辿った人生があまりにも壮絶で、彼の思いはどこまでも純粋だったと感じるからです。

私には、どのような誇張をして彼の人生が語られているのかは分かりません。ただ素直に、彼が語る彼の人生が、あまりにも辛く苦しく、どこまでも神を求め、人々に神を伝えたかったその人生が、あまりにも無垢で素直で、どうしようもない感情にさせられたからです。


私は神を信じています。と言っても、それはこの世界の創造主であるものを「神」と思っているのであり、それが統一教会や文鮮明氏が指し示す「神」と同じものかは分かりません。

ただ今もなお戦争や弾圧、飢餓などで苦しむ人々を見て、涙を流すようなそんな神であってほしいと、願う私もいるのです。

統一教会の言う「涙の神様」が、今なおどうしようも救えない人々を見て、彼が思い描いた世界と全く違う世界を見て、泣いてくれていたらいいなぁと思うのです。心を痛めてくれていたら、ほんの少し、私の心が救われる気がするのです。


ただそれだけの理由ではありますが、だから私は統一教会に、今なお身を置いています。そこが神と繋がる場所だと信じて。


では、先ほども話した献金はしているのかと言うと、まともにはしていません。1/10献金など色々ありますが、私がしているのは、気が向いたら月献金を千円ほど。礼拝参加をすれば、礼拝後に配られるパン代と思って300円ほどの献金。

この献金を、統一教会の方はさも「神のため」「神に返す」などなど言っていますが、私から言わせれば、「神様ってお金で動くの?」っという感じです。


私は、母が45歳の時に生まれた四番目の子供でした。一番上とは15歳差、三番目とは8歳差。完全に予定外の子供でした。ちなみに私の両親は、三番目の子を出産後に既成家庭として祝福を受けました。

そんな母にずっと聞かされたのは、「2世はもう授かれないと思っていた。でも、ある時献金を求められて、お婆ちゃんにも助けてもらって献金をしたら、あなたがお腹に入ったんだ」という話でした。

一番最初に聞かされた幼稚園か小学生低学年だった頃、私は母に「お母さんは、私を神様から買ったの?」と聞いたことを覚えています。

そんなことで奇跡が起これば、もっと多くの人がお金を積んでるよと、今でも思いますが。


もちろん、今だからこそ母がそこに奇跡を感じたのはよく分かります。なんせ45歳。閉経していてもおかしくありませんし、実際ほぼ閉経していたと思います。卵子の状態もかなり悪くなってたはず。そんな妊娠しにくい状態になっていたにも関わらず、思いがけず授かれば、誰だって奇跡を感じてしまいますよね。それも、よくわかります。


でも、そんなお金で動く神様、普通に嫌ですよね。

だから私はあまり献金の意味も感じず、たまーに気が向いた時だけしています。運営費にもお金がかかるのはわかるので、私が無理にならない範囲、嫌にならない程度で。


次回は、祝福についてのお話をしたいと思います。


もし、これはどう思ってるの?これは実際どうなの?などなどございましたら、気軽にコメントください。お答えできる範囲で、おこたえできたらとおもいます。